休校野郎。
休校になってちょうど2ヶ月。
小2&年中の兄弟が揃って家にいるようになり、習い事も学童も休みで完全な自宅生活になってからは1ヶ月になる。そしていつの間にかGWなのか何なのかよくわからない連休に入った。
100%リモートワークwith家族。
多くの人が悲鳴をあげているけど、やっぱり仕事にならなかった。効率は良く見積もって通常期の7割。
だとすると、7割を見越してもともとの6時間の時短勤務を1.5倍して、プラス3時間を確保すべく5時に起きる生活を心がけていたが、「ママ起きたぞスイッチ」が内蔵されている次男が6時に起きてきたりするので、私の静かな朝仕事はかなりの確率で崩壊する。あぁやりづらい。やりづらすぎる。
もっとも、想像を絶する思いをしながら生きてる人がたくさんいる中で、こんな状況は平和なものだし、やる仕事がまだあることをむしろありがたいと感じてる。
今ほど「ありがたい」は「有り難い」だと皆が感じたことなかっただろうな。日常の脆さと“平凡な日々”の貴重さを、世界が同時多発的に共有してるってすごい。
と同時にアフターコロナの価値観転換がちょっと怖くもあり。平凡な日々を守るべく「ぼく、公務員になる!」的な安定至上主義な若者がさらに増えるんだろうか。別にそれが悪いとは思わないけどさ、少年が大志を抱ける世界にしていけるんだろか?考えることは山積みだ。もんもんもん。
話がそれたが、
「休校中の過ごし方」
これがとても悩ましく、しかし学びが多くもあるので今後のためにメモ的に残しておきたい。
◾️有意義の呪縛
コロナ禍の生活を少しでも前向きに捉えるべく、“なかなかこんな機会ないから”と、世の中チャレンジ三昧だ。
街には走り慣れてない初心者ランナーが増え、
美味しそうな手料理の写真がSNSのタイムラインに溢れ、
新たな趣味、読書、子育て環境の充実化…などなど
素晴らしいじゃないか。とても良いことだ。皆が逆境の中で有意義に過ごすべく頑張っている。
でもこの“有意義に過ごさなきゃ”プレッシャーが一番キツかった。
朝、子供を起こして身支度をさせ朝食を食べさせ歯磨きをさせ、宿題を見てから本格的に仕事に入る。ここまで完了するのもけっこうパワーを使う。
その後彼らは放っておくとゲームをしたがる。“30分タイマーが鳴ったらゲームをやめ他のことして目を休める”なんてルールも作ったが、そんなもの初日から破られる。なぜなら管理ができないから。“理想的な”遊び方をさせようと思ったら、30分おきに声をかけ別のことへの興味を促し、自走させるためにちょっと一緒に遊ぶ必要がある。それで仕事がまともにできるはずがない。かくしてゲームは放置され、部屋は荒れ、子供たちは目と姿勢が悪くなる。
そして今回厄介なのは、外で好きに遊ばせられないこと。せっかく自宅で過ごしてるのに、うかつに子供の多い公園で遊んで感染させるわけにいかない。なので、仕事を切り上げて気乗りしない子供たちをどうにか連れ出し、空いている場所を探して遊ばせる。
そして、こうした努力をしたところで、子供にはなかなか伝わらない。朝起きるなり、おはようも言わず「もーつまんない!」と言われ「また仕事?そんなのやらなくていいじゃん!」と怒られる。麺類メインの昼ごはんに飽きたと食べ残し、でもお菓子とアイスの消費量だけはハンパない。イラッとした次の瞬間にも牛乳をこぼされ「ママ〜」。
やってられないぜチクショー!!
あ、心の声が…
仕事・家事・育児とは、時間で分割されていたからなんとか回っていたのだと、この状況になって初めて気づいた。全てを同時にこなさなきゃいけなくなると途端にジェンガのごとく全体が崩れ、親子ともどもストレスが溜まる。
この状況で“せっかくだから有意義な時間を過ごそう”は酷なのだ。気にしなきゃ良いんだけどさ。やっぱ私がダメなんだろかと思ってしまう、世の中の空気よ。
でも、健康で感染もせず(たぶんね)、政府の呼びかけを守り、毎日3食食べてぐっすり寝てるだけで十分頑張ってるんだと思う。
私たちエライと思わないと。
「生きてるだけで丸もうけ」って歌があった気がするけど、ほんとその通りで。まさかこんな形で実感するとは思いませんでしたよハイ。
◾️オンライン授業、無理
小2長男、まだ小さいとはいえこれだけ授業が休みだと、さすがに勉強しなくて良いのかと不安も出てくる。宿題はあるけど、せいぜい1日30分程度。今まで5.6時間あった授業とは大きな差だ。
なので各社が出してくれてるオンライン授業や教育系の動画など、一つでも興味が出ればと思い、いろいろ見せてみた。
が、結果は全滅。
どれもこれも飽きちゃってつまんないらしく、最後まで見たことがない。マインクラフトの攻略動画なら何時間でも見るくせに…。
なぜか。観察するといろいろわかった。
・1対1、かつ直接コミュニケーションの図れない授業は苦痛
・そもそも勉強して知識を身につけたいというモチベーションが低い
・テンポの速い動画に慣れてるので、教育動画の丁寧さを、まどろっこしく感じる
試しに一緒に視聴して「この先生画面ちかっ!」とか「字ちっちゃ!」とかひたすらツッコんでたら割と楽しく見てたけど、それでも最後まではもたず。
オンライン授業、夢のツールかと思われましたが(個人差はありそうだけど)うちの子には無理でした。
少なくとも自走はしないので、どうせ付き合うなら自分で教えるわ!ってなっちゃった。
なかなか難しい。
◾️人間は食べるために生きている
義実家に「マンガ日本の歴史」を送ってもらったので、久々に読んでみたらこれが面白い。
縄文時代の人々は狩りがメインの生活で、土器や狩猟道具が作られ、稲作が生まれ、米の採れる土地に移動して暮らしー。
なんか、はからずも“人間は食べるために生活する”という動物としての本質をしみじみ感じてしまった。
そうなのよ。
きっと今みんなが食べることに向き合っている。
ほかにやることがないという側面もあろうが、先のSNSを彩る手料理画像もそれを物語る。
できるだけ美味しいものを、身近な人と(一人暮らしの人はバーチャルで食卓を囲む選択肢も出てきた)、できるだけ楽しく食べたい。
至極ありふれた欲求がなかなか叶いにくい世の中になっていたことに気づき、ならばそこに向き合おうとする人たち。私とてその一人だ。
縄文時代の人が今の状況を見たら、こいつらやっと気づき始めたのか!と思うかもしれない。食べ物を生み出す以外の仕事なんて、もともとは暇つぶしだったのだ。食べ、生きて、種を保存するのが人間の原点。
だから今日も美味しいものを美味しく楽しく食べたい。子供たちにも、その素材を作った人と流通させた人、調理した人にリスペクトして、食卓を大事にする人になってほしいなと思う。
この状況が落ち着いたら、きっと食の世界にも大きなパラダイムシフトが起こる。流通だけでも、外食・中食・テイクアウト・自炊の間に無数の選択肢が生まれ、楽しさも増すはず。
公私とも、何か少しでも力になれたり、関われたら良いなぁ。美味しいものは人を元気にするから。
とにかく。
早くもとの世界に戻りますように、と言いがちだけど違和感がある。
戻ったらダメなのよ。
あらゆる気づきを紐解いて、もっと良い世界を作りましょう、がきっと正しい。
珍しく真面目に終えてみます。
明日はタコ焼きパーティーでもしようかなー。
自由の下手くそ。
「コロナが落ち着いたら」
を枕詞のように使ってしまう今日この頃。
このままじゃ本当に落ち着いた時にめちゃくちゃ忙しくなるんじゃないか私。
コロナに関係ないことの言い訳にまで使ってはいけません・・・
それはそうとこの騒動、ちょっと前まで予想しなかったような大問題になってますね。
私の友人も何人か感染拡大が深刻な地域にいて、とても心配。どうか彼女たちが無事で、そして日本でも早く事態が収束することを心から願います。
翻って私たち家族の生活はというと。
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長男:休校3週間で春休み突入。居場所がほぼ毎日変わる。
次男:通常運転(保育園)。
夫:通常運転。
私:仕事は通常運転。頭と体はコロナ対策でパンパン。
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この温度差に何かを感じる方もいるかもしれませんが、現代日本のリアルな縮図だと思って温かく読み飛ばして下さい。
うちの長男は体が弱い。
トレンドに敏感で、その辺に漂ってるウィルスはほぼ例外なく取り入れ、時代の最先端を行く7歳。
(昨秋から2か月おきに溶連菌→インフル→溶連菌。枝のように細い腕にはなかなか肉がつかず、お尻がクッションにならないので尻餅つくと痛そうだ。基本は元気なんだけどね。)
うちの校区は自治体のはからいで、共働き家庭のために昼過ぎまで学校が開放されており、そのあとは敷地内の学童に行くことも、実は可能だ。
でもこの状況で、トレンディな長男を人の多い学校に送り込む勇気がなかなかなく、、
リモートで繋げばなんとかなる仕事をしてるのもあり、結局休校以来一度も学校には行かず、今まで乗り切ってきた。
長男の居場所のパターンは
①自宅
②近所の友人宅
③週2の私立学童(ここなら預けて良いのかというモヤりMAXだが、職員が多いしお金払ってるからアリという無理やりな自己説得。)
④習いごと(ただしスイミング等ほとんどは休校)
②の、同じような境遇の友人との子供預かり合いはかなり助かった。
預けても預かっても、2人で遊んでくれるので、あの悪の呪文のような「つまんない」「飽きた」を聞かなくて済む。
遊んでくれてる間は、オンラインミーティングに変顔でフレームインされることもないし、必死に作ってる資料に文字化け風タイピングをされることもなければ、電話のうしろでおもちゃの音を大音量で流されることもない。
あぁ快適。
つるむと生意気さがヒートアップするのがたまにキズだけど。。
しかしそんな日々をずっと続けるわけにはいかず(なんだかんだフルリモートにはなれないので、どうしても預ける方が多くなって気まずい)、
さらには「何をそんなにヤキモキしてるのか、あちこち頼ればどーにでもなるだろ」的スタンスで、相変わらず深夜に帰る“大きい長男”にムッキーーー!!💢なわけで、先週一週間は子供2人連れて実家に“疎開”してた。
(何かを感じる方もいるかもしれませんが、現代日本のリアルな縮図だと思って温かく読み飛ば…)
しかし疎開先でも、70歳前後の父母がヤンチャ盛りの男子2人を一週間も相手にするのはかなりヘビーな様子で、ちょっと肩身が狭かった。
なんだかなー、
どこでどう過ごしても「これで良いのだ!」ってなれなくて、気づけば夜になると胃がしくしくと痛む毎日。
なぜ、休校以来こんなに居心地が悪いのか?
ずっと考えてたんだけど、それは私が(いや恐らく私以外の多くの日本人も)“自由”の扱い方がものすごく下手だからなんだと思う。
休校になったことで、子供たちは自由になった。
何をしても良い。時間はたっぷりある。
(もちろん小学生と言えど学生なので勉強が本分だという認識はある上でね)
そして親は自己責任で子供の行動範囲を決め、無限とも思える選択肢の中からその時間の使い方を決めなければいけない。
決めなければいけない?
ほんとにそうなの?
前代未聞の事態に、さまざまなコンテンツが善意の(そしてまたとないPRチャンスとしての)無料公開となり、
私もたくさんダウンロードした。
放っておいたらマイクラやりまくって近視のゲーマーになっちゃうからと、ブックオフで大量に教育系マンガを買い、ダイソーでブロックと塗り絵をコンプリ買いし、
恐怖の「つまんない」を聞かないで済むよう、
3週間もの“自由”を有意義なものにするよう、
なんとかして時間を埋め、仕事もディレイさせないよう早起き残業して。
でもきっと自由ってそういうことじゃないよなぁ、自由はいざ与えられると自由に使えないんだなぁ、と愕然としたのです。
イタリアでは、外出できない人たちが平日の昼間からバルコニーで楽器を弾いて歌って、ご近所さんとセッションしてるらしいですね。
思えば私の子供の頃はヒマな時間が多かった。天井のシミとかボーーッと見てた思い出がたくさん。
何も成長しない、
何も達成しない、
けど、誰がその時間を無意味だと言えるんだろう。
あるべき論に振り回されて、
自由な時間も何かをなし得ないといけないと思って苦しんでしまう自分に、今回の騒動で気づけたことは良かったかもしれない。
そして不謹慎コールを恐れてか皆大きな声では言わないけど、今回の騒動のおかげで、これを乗り越えた時に大きなパラダイムシフトが起こると期待してる人も多いはず。
「うちは業務的に出社しないとできない仕事なんでねぇ」と思考停止のおじさんたちがリモートの波で一掃されて、
健康が何よりも優先されるという共通認識ができて、
ジェンダー格差と旧態依然の教育が改めて明るみに出て、なんとかしなきゃという風潮が強まるはずだ。
ついでに天井のシミをボーーッと眺める時間もいいよねってなるような、
くだらない自由を楽しめる余裕のある価値観がじわじわ来たらいいなと思う。
たまには仕事も圧縮して、なーんも成長しない1日を子供と味わってみようかなぁ。。
ライブに出たときの話。
冷蔵庫の中で凍りかけた愛を
温め直したいのにーーー
竹内まりやはうまいこと言う。
愛だけの話ではない。
夢とか趣味とか本質とか、
冷蔵庫の片隅で時が止まっているもの。
大人なら誰しも心当たりがあるんじゃないか。
先日、15年ぶりにライブハウスのステージに立ち、少しだけ歌った。
終わってみれば自分のクオリティには悔やまれることばかりで、よく恥ずかしげもなくあんな場所に上がったもんだと自己嫌悪。
しかし
すごーく、楽しかった。
音楽がいかに良いものか、どんな音楽のどんなところが好きなのかを書いてもフーン感が満載になるので今回は我慢。
それよりも、ライブに出るまで、そして出たあとの一連の流れから得るものがとても多かったので、そのことについて書きたい。
ことの発端は一年前。
大学のバンドサークルの同期で、当時部長だったベーシスト(二児パパ・大手メーカー)の友人が、仲間3人に声をかけてスタジオに通い始めた。
3人は
プロのドラマー(プレパパ・新婚)
ギタリスト(三児パパ・金融マン)
ボーカル(二児パパ・金融マン)
であり、ドラマー以外は私同様、15年のブランクを持つメンバー。
そこに元部長が連れてきた経験豊かでスキルフルな先輩キーボーディスト(こちらもパパ・グローバルIT)が加わり、楽しげなジャムセッションが定例化された。
おお、懐かしいメンバーで面白そうな動きがあるなぁと思って横目でFacebookを見る(完全に他人事)
↓
当時の仲間の飲み会に誘ってもらい、何度目かに参加(音楽トーク楽しい)
↓
「そのうち巻き込むからねぇ〜」と元部長に予告をされる(またまた冗談を)
↓
今度ジャムるからおいでと言われたけど行けなかったら、写真と動画がたくさん送られてくる(なんだよ気になっちゃうじゃないか)
↓
「ライブが決まったんだけどコーラスが足りないらしい。お願い、一緒に出ない?」と愛する友人(三児ママ:ギタリスト妻)に言われる
↓
えーーーーーーっ・・・
↓
あれ?ステージに立ってる私。(←今ココ。)
すべては元部長の戦略である。
まんまとやられた。
まんまとやられたと言っていたのは私だけではない。
皆が「なんか元部長がアツいからさー、いつの間にかこんなことになっちゃってもーっ。」的なことを言ってた。
でも全員笑っていた。
残業を切り上げてスタジオに通い、睡眠時間が4時間ほどの日が続くメンバーがいたり、
夜中までYoutube音源の投げ合いがLINEグループで繰り広げられたり、
ライブの当日朝まで個人練習に入るメンバーがいたり、
仕事あるいは家庭を持ちながら趣味に時間を割くことは、なかなか大変だ。
でも、
ある人は忙しく仕事がキツいほど楽器を持った時の解放感がすごいと言い、
ある人は自分がブラックミュージックが好きで好きで仕方ないことを改めて認識したと言い、
ある人は15年ぶりの本気ステージを見た家族の、自分を見る目が劇的に変わったと言った。
この状況を作り出した元部長、すごいなぁと純粋に思う私。
冷静と情熱と道化の間を行ったり来たりしている彼の、一年をかけ人を巻き込み導く力に感服する。
以前有名なコミュニティマネージャーにお話を聞いた時に、良いコミュニティの条件は
・上下関係がないこと
・出入りが自由であること
だと仰っていたのだが、それを知ってか知らずか(いや絶対知らないだろ)彼を中心にその条件を満たすコミュニティになっていることも面白い。
人生100年時代の、サスティナブルでフレキシブルな“会”(メンバーが固定される“バンド”ではないそうだ)だというこのコミュニティ。
私は次いつスタジオに顔を出すのか、果たしてスキルを磨くために練習するのか、またステージに立つことがあり得るのか。何ひとつわからない。
でも、「今日ちょっと時間できたから行くわ!」とフラッと参加したら、きっと喜んで迎えてくれて、その日の練習曲を私が参加できるようにカスタマイズしてくれるのだろう。
そういう居場所を持てることの、なんという幸せ。
そして、ライブに向けて何度か家を空けた私を快く送り出してくれ、当日も見に来てくれた夫と子供たちに感謝。
23時、ヒールをコツコツ濃いめの化粧で帰宅する二児の母に、眉をひそめる人もいるだろうか。
いやひそめてもらって構わないや。シワが増えるのはそちらですし。
すべては文脈。前後関係があった上でのその瞬間。
そこの想像力を失った大人にはなりたくない。
自由さえ、文脈。
閑話休題。
もし、私って何が好きで何者なんだっけ?と思うようなことがあったら、自分の冷蔵庫の奥を漁ってみることをおすすめしたい。
きっと何かが凍りついてるから。
そしてフリーズして時間が止まってるなら、賞味期限は意外と長い。
いつでも温め直したら良いのです。
大晦日のつれづれ。
ブームが去ってからの今さら投稿で恐縮ですが(いつもそうだけど)、
がなかなか良かった。
今年からお仕事で文章を書かせてもらうようになり、進まぬ筆と迫る締切りの間で七転八倒し、反省と後悔と少しの希望を胸に次の原稿に取り掛かるという、世のライターさんの気持ちがよーーーくわかった2019年。
この本を手にしたときは、どうせ自分の物書きとしての至らなさを突きつけられてヘコむんだろうなと思ったのですが、意外なことに「私、ちょっと良いライターかも」と思って本を閉じることになった。
(あああ、「お前ふざけるな!その程度でどこが良いライターだ勘違い甚だしいんじゃボケ!」という世間の声が聞こえるが、どうか大晦日に免じてお許し頂きたいあぁごめんなさい・・)
と言うのも、タイトルである“読みたいことを書く”というこのただ一点においては、今年の自分に合格点にあげても良いかなと思ったから。原稿には読み手がいて、それを誰と想定するかで書き方も内容も当然変わるわけだが、やっぱりどうしても「自分が読みたくない文章にはしたくない」という思いが心のどこかにあり、拙いながらに(そして半分無意識に)そこにこだわっていたなと気づいたのだ。
本の要旨はたぶんこういうこと。
なんちゃってライターが星の数ほどいる今、文章力で一旗挙げたり真新しい論を説くことは至難の技。だいたいのことはもう夏目漱石あたりで書き尽くされている。だったら自分が一番の読者になって、愛をもって書く対象に向き合い、とことん自分が納得するまで書けば良い。
無論、与えられるテーマがある場合、すべてが書きたいことにはなるはずはなく、興味すら湧かないものもあるけれど、そうなったら“好きかも”と思うポイントが出てくるまで調べ尽くせば良い。書きたいという熱量を持って書いた文は、たとえ数は少なくとも必ず誰かの共感を生むものだ。
ふむふむ。
わかるぞ、その感じ。
ー深夜、暗い部屋で腰の痛みに耐えながらキーボードを打って、自分で書いたものに自分で少し笑う、それが「書く人」の生活であるー
あれ、これ私のことじゃないか、、?
恥のかき捨てついでに告白すると、夜中目が覚めてすることがないと、過去の自分の文章読み返して「ここのとこテンポよく書けてるな」とか「うまいこと言ったで的なドヤ感出ちゃってる〜ww」とか一人読み返して楽しんでるんですよ私。
ヒマかよ。
ということで、自己肯定感低めの自分にとっては、そのスタンスで良いんじゃない?と言われたようで、なんとも有難い一冊となったわけです。
ところで、ライター向けであるはずのこの本がここまでヒットしたのは、林修先生がテレビで取り上げたことや、そもそも文章を書く人の総数が増えてることもあるんだろうが、“読みたいことを書く”→“やりたいことをやる”と置き換えると、みんなが自分ごととして読めるからなんじゃないかなーと思案。
働き方改革だ多様性の時代だと、これまで80年近く変わらなかった価値観を今変えないとヤバいぞと急に煽られて、世の中に感じる矛盾や怒りや恐れや楽観したい気持ちやごちゃごちゃしたものをどっさり抱えて、誰も彼もが自分探しをしている今。
でも、いつの時代も、どんな与件があっても、“やりたい”と思うことに勝るエネルギーはないものだなぁと思う。
私は今、やりたいことを突き詰めて生きていこうとする人に囲まれて、とても刺激的。
年の瀬には「やりたいことまたやろうよ」と声をかけてくれる友人もいて、ありがたい限り。
でもそこに思い切り乗っかっていけるだけの気概もパワーも持ててないというのが正直なところ。アクセルを踏むつもりはあるのに、結果的に徐行運転しかできてない感じ。
思えば2019年の抱負は、“大人になんてなるもんか” だった。過ぎてみると、だいぶ“大人”に甘んじてしまってた気がする。
やりたいこと、なんだったっけなぁ。
大人サイドの自分がだいぶ蓋をしてきたことの、あれやこれや。
2020年は、解放の年にできたらと思います。
お酒飲みながらぐーたらテレビを見てる横で、見えない敵とアクロバティックに戦って汗だくになってる次男を見て、なんとなくそう思った大晦日。
今年も大変お世話になりました。
来年が皆にとって良き年になりますよう!
子のこころ親知らず。
長男が1年生になって半年が経った。
環境・規範・人間関係など、その全てにいちいち親子で「なんだこりゃっ!?」と衝撃を受け、いわゆる“小1の壁”にボコボコぶつかり青タンをたくさん作っていたのだが、その青みもだいぶ薄くなってきた。
死んだ魚の目をして苦行のように通学していた長男も、今はなかなか楽しそうだし、
私の方もあんなに難解だったプリントを読みこなすようになり、工作用にトイレットペーパーの芯を取っておくストレスももう(ほぼ)ない。
壁、越えたっぽい。
(つまりは慣れたってことなんだろうけど、それが良いことなのかは正直まだよくわからない。適応することは思考停止と背中合わせだから、もしかしたらより良い選択肢を潰してる可能性も大いにあって、ないものねだり病の私としては、モヤモヤが100%消えたわけではない。
が、この辺のタラレバ話は出口見えなそうだし今日はやめておこう、、。)
とにかく、いろいろ落ち着いて、親子とも穏やかな気持ちで最近は過ごしている。親が落ち着けば子も落ち着くものらしい。この子のために!とやきもきする圧は伝染するんだな。
そして一年生ともなると、対等に話をできるようになったなぁと感じることがほんとに増えた。そして敵わないことも増えた。
・オセロ(5割は本気で負ける)
・説明のわかりやすさ
・状況理解のスピード
このあたり、白旗。
悔しさとむなしさと心強さと。
あんたもう母ちゃんを超えていってしまうのね。
そして私の知らない彼の世界がひとつまたひとつと増えていく。
私ポケモンわからんよ、マイクラもついていけない。友だちと何を話し、何を感じ、どんなことしてるのか全然知らない。
イキがったり格好つけたり羽目を外したり。アホな小学生男子め、ほんの数年前までそんなことしなかったじゃないか。
一応その日1日の出来事を話してくれるけど、どこを切り取るかは彼の編集フィルターによるし、真実は彼にしかわからないのです。
そういやこないだ、言うことをきかなくて叱ったら、どうやら私の叱るポイントが長男的にちょっとズレてたらしく
「いやそういうことじゃないよ。ママが僕になればわかるのに。」
って言ってたのがすごく印象的で。
そうなんだよ。もう君は私とは全然別の個人なのです。いや初めから別なんだけど、シンクロ率がどんどん下がってくわけ。“僕”になることが次第に困難になってくんだなぁとしみじみしてしまった。
ちょっと前のラジオ番組でAR3兄弟の川田十夢さんが、“これからのARは人間の脳や思考とリンクしていくから、例えば医者なら、科学者なら、ザッカーバーグなら、この日常の景色がどう見えているかという視点を再現できるようになる”という趣旨のことを言っていて、うわぁそれめちゃくちゃ面白そうと思った。
そして長男の視点をそのARで体験したら何が見えるのかなとすごく気になった。
親離れする日はまだまだ先だと思いつつ、私の知らない彼の世界が拡張しつつあることは、ちょっと寂しく頼もしい。
「子育ては親育て」
とか言うけれど、こんな今まで知らなかった感情を教えられるのは幸せなことと捉えよう。
そして長男のあとには、ぶっ飛びワンダーランドを生きている次男が控えている、、。
彼の世界をARで擬似体験したら卒倒するかもしれない。
気をつけよう。
妻のトリセツ。
こんなものをパートナーにプレゼントするような人間にだけはなりたくなかった。
一時期えらく売れた本でテレビでも頻繁に紹介され、◯万部売れました!満足度◯%!みたいな車両広告が出ていた。この手の本にはあまのじゃく心全開で反発してしまうし、
そもそも千差万別のはずの人間関係(この本の場合は夫婦)に対して一定の“傾向と対策”で知った風にアドバイスが書かれてることも気に入らない。
だがしかし、結婚9年目の記念日のややネタ切れしてきた贈り物に、私はこれ以外の選択肢が考えられなかった。
夫よ頼む、これを読んでくれと。
断続的に続く小競り合いにもほとほと疲れ、口を開けばケンカが始まるかもと疑心暗鬼に→じゃあしゃべるまいという悪循環で、会話がない熟年夫婦が出来上がる1つのパターンを知る。
まずい。
子供がこっち見て顔色伺ってる。
なんとかしなきゃいけないが、ひとつひとつ妻側の言い分を説明して理解を求めるのは煩わしいし、そんなことしたらまた争いの火種をまき散らしかねない。
しかも相手は私史上最強の扱いにくい人間だ。ただの屁理屈を“常識に囚われないオレの理論”と履き違えるツワモノだ。
なぜ何度言っても洗濯物を裏返しにしたまま出すのかと問えば「本当に汚れているのは汗をかいた裏側のはずだから、あえて裏のまま出しているのだ(ドヤ)」と答える。
「あのね、着るときは表に戻して着るんだし、外に見える面を綺麗にしておきたいよね♡」などと丁寧に切り返せるほど私は優しくない。ただ閉口し、今日も静かに裏返った洋服を一つ一つ戻すのだ。
(こういう例には事欠かないが、あんまり書くと外でイジられるからやめてくれとクレームが入るのでこのへんにしとく。)
とにかく私は疲れたのだ。
この本になんか良いこと書いてあるだろ。中身はよく知らんが読んで悔い改めてほしい、、
という思いから、本来なら気に食わぬジャンルの本が夫の手に渡ったのである。
結果、夫は意外とこの本を読んだ。ゴミ箱に捨てられるかと思ったが、時々手に取っては、感情の読めない顔でページをめくっている。
ふーん。あの本、何書いてあるんだろ、ちょっとくらい読んでみるか。
と今さらながらザッと目を通してみた。(読んでから贈れ、という話だが、、)
そして。
読んで最も感じたのは、
“夫に負けないくらい妻(自分)は面倒くさい存在である”
ということだった。
実はこの感想を持つだろうことはある程度予想していたのだが。
例えばこれ。
なんとまぁ面倒くさい女心。認めたくないがこのような翻訳が必要な言動を自分もしている。
言葉のままの意味で会話が成り立たないなら、イライラギクシャクも当然だし、夫側もまたややこしい思考回路を持っているうちのようなパターンはさらに厄介だ。
ニワトリと卵の大行進。
もはや何が発端でどちらに非があるのかなんて闇の中である。
つまり、この本が暗に言わんとしてるのは
「奥さん、あんたもたいがいにしときなはれ。」
ということであり(これは文中では明言されていない)、
「旦那さん、奥さんの面倒くさいところ、よーくわかった上で接したら良いわ。」
という表向きの主題とセットで受け取るのがたぶん正解なのだ。
もし、夫婦喧嘩対策の新手法を探している方、子供が産まれる(もしくは産まれたばかり)の方がいたら一読しておくと良いと思う。
“ふーん”レベルの本の知識でも、いつか役に立つ時が来るかもしれないですよ。
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さて、この本のおかげというわけでは(あまり)ないのだが、長い間くすぶっていたモヤモヤも私の中で晴れつつある。
悩み傷つき、人間の形をしたストレス、みたいになっていた原因の一つは、やはり夫婦で公私を共にしてしまっていたせいな気がしている。
仕事脳と家庭脳をキッチリ切り分けるのはかなり難しいし、夫婦で職場にいる周囲への変な影響は遮断すべきだ。それが通説だからこそ、社内結婚したカップルは部署を離され、経営者の妻の多くは夫と全く違う方向から会社に関わったり、あるいは全く関知しないことが多いのだろう。
「夫の仕事のことは何もわからなくて、、」が実はうまくやる秘訣だったりするのだ。
なので、今いろいろと優先順位の組み替えをしつつ、全体最適のための試行錯誤中。
数年前の自分からすれば、考え方も行動もすっかり変わって、外から見れば“あきらめ”を選択したようにも見えると思うが、諦めるとは本来“明らめる”、真理を明らかにするという意味。
ポジティブに「今はそういう時期」として笑っていられるように、あらゆる選択をできたら良いなと思ってます。
(別に仕事辞めるとかそういうわけではなく、スタンスや考え方の話。なので面白そうなお仕事の話あったら引き続きお声かけ下さい。)
それにしても、この頃“夫婦で営む〇〇店”とか“家族経営の〇〇屋さん”とかへのリスペクトが半端ない。彼らがやってることがいかに難しく努力が必要かをよくわかったから。
行きつけのクリーニング屋でいつも出迎えてくれる夫婦(2人の会話は一切なし)と、今ならきっと仲良くなれる気がするわ。