ハワイ。
ハワイに行ってきました。
と言っても、もう戻って10日もたってしまった。
本当は興奮冷めやらぬ感じで青い海!広い空!的なことを書くつもりだったのですが、
なんだか毎日やたら眠くて老人並みの早寝早起き生活をしていたら、夜中に書いてるブログなど開くこともなく、秋もすっかり深まって今に至る。
寒いよー。
よく遊ぶ友人夫婦がぼやいた
「あ〜ハワイ行きて〜」
の一言にハイハイハイハーイ!!と身を乗り出して手を挙げ実現したこの旅行。
どうやら一部では“あの奥さんがハワイにどうしても行きたいと言ってきかない”ということになっているようだが、まぁ構わない。
あながち間違ってもいないし。ふんっ。
ハワイ通の二人はとにかく詳しくて、
あれが食べたいこれがしたいというリクエストに的確にこたえてくれた。
旅行の時はプランニング側に回ることが多い私としては、こんなにラクな旅は初めて。
手際よくやってくれてたけど、
けっこう大変だったろうな…
ほんと、感謝!!
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楽しかった旅行記書いてたらキリがなくなりそうなので、特に印象深かったとこだけメモ。
◼︎朝ヨガ
一回やってみたかったこれ。
現地在住の日本人先生(美人)を呼んでもらって公園でやりました。
朝5時半に起きて、寝ている子供達と夫を残してそ〜っと出ようとしたら、背後から
「おっはよーアロハ〜♪」
とハワイかぶれの長男の声が。
チッ。
しぶしぶ彼も連れて行くことにし、あーぁゆっくりヨガできなそうだなぁと諦めかける。
が、キレイな先生におだてられたせいか、意外なほどヨガに参加する長男。
フラフラしながらも一生懸命立ち木のポーズをする3歳児はなかなか頼もしいものでした。
朝の空気とか、流れる雲とか、目を閉じた時感じる光とか、
ベタかもしれないけどやっぱりそういうものが素晴らしくて、心が広くてヘルシーな人間になりたいと素直に思ったのでした。
まぁ2時間後には夫とケンカしてたけど…。泣。
◼︎ホノルル動物園
大人がやりたいことをわりと優先してしまう我が家でも、1日くらいは子供デーを作ろうと、
友人夫婦と別行動にして動物園へ。
“たいしたことない小さな動物園”とネットのレビューにあったので、
ちょっと寄ってからビーチに行こうくらいのノリで行ってみた。
が、意外に広い!
そして、動物がいない!
歩いても歩いても空っぽの檻ばかりで、
奥に動物がいても背を向けて昼寝してて何の動物かわからないというユルすぎる動物園…
なのに他の外国人観光客はけっこう楽しんでいるようで、“なんで?!何もいないけど?日本の動物園のクオリティって高かったんだなぁ〜”とかモヤモヤ思っていたが、
後半のゾウ、キリン、シマウマあたりからはようやく動物園らしくなってきて、
子供たちも楽しかった様子。
ホッ…
まぁちょっとびっくりしましたが、トロピカルな花がたくさん咲いていて、芝生や遊具もあって、子連れで散歩するにはとても良かったです。
動物園改め、“動物もいる公園”と名前を変えてほしい、ぜひ。
◼︎キッチン付ホテル
「ハワイはご飯が高いから、テイクアウトで食べたり自炊できるホテルがいいよ〜」
との情報をもらったので、
某国の胡散臭い大統領候補が経営するあのホテルに泊まりました。
驚異のクジ運を持つ夫がチェックインしたところ、部屋をアップグレードして頂き、
予想外に良い部屋に泊まれました。
サービスもなかなか良くて、やるじゃんト◯ンプ!という感じ。(まぁあの方はあんまり好きにはなれないが…)
キッチン付きのホテルには初めて泊まったけど、これは便利。
子供いると電子レンジやコンロに冷蔵庫、食器類があることでかなり助かりました。
夜な夜なみんなで部屋飲み会をやったのも楽しかったなぁ。
長男が帰国後、
「またベランダでご飯食べようよ!あれ?狭い!無理だね!」
と言ったのがちょっと切なかった…。
他にもカイルアビーチやファーマーズマーケット、ステーキにパンケーキにアサイーボウル…などなど、THE・ハワイを満喫させて頂き、
かくして育休中の大イベントが終了したわけでございます。
そして働いていつかまた来るぞと心に誓ったのでございます。
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飛行機での帰り道、ぼんやりと思ったのが、
海外を近く感じて生きてたいなぁということ。
海外旅行というとちょっと大げさな感じがするけど、今回の旅にしてもお盆の北海道よりずっと安かったりするし、
英語や街歩きも(国にもよるだろうけど)スマホのおかげもあり行ってしまえば何とかなる。
ニューヨークで働く友達が、
「みんなすごいとか羨ましいとか言うけど、だったら行っちゃえばいいのにって思う。海外なんてさ。」
って言ってたのがすごく印象深くて、
そうまで思えたら人生すごく広がるだろうなぁと思った。
もっともハワイ旅行とニューヨークで働くのでは全然次元が違うけど笑、
国境をヒョイっと飛び越えられる心身のフットワークを持っていたいなぁ。
それと勇気と度胸と体力とやりくり力と情報力と…
オラに力を!
ゆとりちゃんの可能性。
「近頃の若い者は…」
と口にした瞬間、人はひとつ老いるのだと思う。
ファッションやカルチャーで言えば
その理解できなさが一種のステータスみたいなものだろうし、
「どーだわかんないだろう!」
と本人たちが意識してるかどうか知らないがその時代を駆け抜けた後に甘苦くちょっとイタい思い出として残るのだ。
そんなの今に始まったことじゃないし、
近頃の原宿系ファッションなんて昔のガングロやシノラー(書いててすごい化石感!)の衝撃度に比べたらきっとかわいいものだ。
一方で目に見えない価値観はどうだろ。
昔から数年おきに◯◯世代とネーミングがされ、派手とか地味とか個性があるとかないとか価値観の傾向がくくられてきた。
(ちなみに私は“プリクラ世代”とも呼ばれ、就職氷河期を彷徨いました…)
↑ここにあるゆとり(さとり)世代のように、
この手の“無理しない、欲がない、きれいにまとまる”的な若者はこのごろ確かに多いなと感じる。
そしてときどき心に押し寄せる
「いやいやいや君たちユルいんじゃない?!甘いんじゃない?!」
というツッコミが、自分が年取ったから感じてしまうものなのか、本当に彼らが甘くてダメなのか、もーよくわからなくて悶々とするのだ。
そもそも“甘い”ってなんなんだろ、
甘くちゃダメなんだろか。
ゴリゴリ頑張って、無理して背伸びして、なんか成し遂げたらまた次の高みを目指して…
ってそういう状態を良しと考えること(中野氏http://woman.type.jp/wt/feature/467に習って“マッチョ志向”とでも言っとこうか)が仮に古いのだとしたら。
たまにおじさまおばさまが
「俺の若い頃は◯日も家に帰らず仕事したのに今の若者は根性が足りん!」
「今のお母さんたちは恵まれてるわねぇ、昔はもっと大変だったんだからもう少し苦労しないと…」
なんて言ってると白目になりそうになるが、
そういう生産的でない懐古主義と大して変わらないんだとしたら。
だってユルく甘くやった結果どうなるのかって、実はまだあんまり世の中が経験していないわけで。
ワークライフバランス的な話でいつも感じるのは、そういうことを言う人たちはだいたい“マッチョ志向の反省”としてQOL重視に舵を切っているから、始めからユルく生きてる人たちが世の中の中心になったらどうなるかは未知なんだよね。
あのスティーブジョブズでさえ、死ぬ間際に
「オレは大切なものを犠牲にしてきた」
と、ある意味マッチョにやってきたことを反省してしまってるのだ。
ユルい世界になっていったら、
経済的には縮むかもしれないけど、それに代わるなんか全く違う尺度が生まれていくかもしれない。
もしかしたら今すごい転換期なのかもしれないなと思います。
とはいえ、ただのやる気ないユルユルじゃなくて、
“ユルいけどすごい!”(←表現が稚拙…)
という人やモノが評価されてほしいなと思うけど。
とかなんとか書きつつ、
でもやっぱせめて最初の一杯くらいは
ウーロン茶じゃなくて生中ジョッキで元気に乾杯しようよ若者!!
とか思ってる私はやはりマッチョ志向なんでしょうかね…
残業ラーメンや接待カラオケだってそれはそれで楽しい…
ってダメだ、年だわこれ。
コーヒー愛。
年間300杯くらいは飲むだろうか。
地元のコーヒーショップで受験勉強して、
ドトールのミラノサンドBとアイスコーヒーと文庫本が定番で、
スタバのラテを片手に早朝のオフィスでパソコンを睨み、
セブンカフェの100円コーヒーのクオリティに驚き、
(形から入る)夫が買った電動コーヒーミルが今日もけたたましく豆を砕く。
いつもコーヒーがそばにいて、
その時々ゆるいマイブームみたいなものがあった。
そんなに詳しくもなくこだわりもないけれど、どーせ飲むなら美味しいコーヒーで幸せになりたい。
酸味少なめの深煎り系が好きです。
マンデリンとかコロンビアとか。
あーでもモカも美味しいと思うようになってきたな。
……
なんて書くとコーヒーをたくさん飲むかのようですが、
違うんです。
一口でいいの。
ほんとにちょっと飲めば満足するタイプ。
外で飲むコーヒーはたいてい残すし、
家で朝淹れたコーヒーはちびちび飲むので昼になってもまだ残ってる。
試飲カップ。
あのサイズ!あのサイズなんですよ私が飲みたいのは。
スタバで“スーパーショート150円”なんてサイズを作ってくれたら毎日でも飲むのになぁ。
(グランデとか私にはもはや謎でしかない…)
「コーヒー、もういらないの??」
という言葉を今まで何度かけられてきたことか。
カフェでは店員さんに「この人このコーヒーまずかったのかな…」といらぬ心配をかけてしまってきたことだろう。
違うんです。
美味しいの。
コーヒー大好きなの。
でもちょっとでいいんだよ。
ってのがなかなか理解されないんだよね…
とはいえいちいち説明するのも面倒だし、
あーやっぱ私ちょっと変わってるのかなぁと思ってたんだけど、
こないだ朝のテレビ番組で
“コーヒーを寝る前に「淹れる」とよく眠れる=香りに強いリラックス作用がある”
と言ってるのを聞いて合点。
私が求めてたのは出来たてのコーヒーの“香り”だったんだなと。
あの深〜い香りと始めの3口くらいで、私にとってのコーヒーの役割は終わるのだ。
そういうわけで、
カルディコーヒーファームの店頭試飲に誰よりも満足しているのは自分だと思う。
あの手のひらに収まる紙コップに半分だけ注がれたミルクコーヒー。
私のコーヒー欲を満たすちょうど良い量。
最寄駅にカルディができた時、“喜んだ地元人ベスト30”にたぶん入ってるはずだ。
もともとカルディの商品も大好きだけど、あそこに行く理由の4割くらいはマイルドカルディの試飲だからね。
普段はブラック派だけど、あの甘ったるいコーヒーは買い物に疲れた体に染み渡る。
アイスからホットに変わった日には秋の訪れを感じ、
ハロウィンブレンドが傍らに陳列されてるのに試飲はマイルドカルディであることで「くそぅ、こいつを飲ませてはくれないのか…」とかえって購買意欲を刺激してくる。
これからはクリスマスお正月と、インスタ映えしそうな食材がずらりと並び、限定豆も出るけれど、
それでも店頭では「温かいコーヒーお配りしてまぁ〜す」とマイルドカルディが手渡されるのだ。
なんかいつも同じ煮物を出してくる田舎のおばあちゃんみたいな安心感。
あーあそこに寄ってくか、とふらりと立ち寄りホッとして歳時記を感じて帰る。
(おばあちゃんと違うのは、お小遣いはくれず逆にムダ遣いしてしまうことか…危険…。)
あの試飲、すっごいマーケティングに基づいてやってたりするのかな。
あれなくしたらどのくらい売上落ちるんだろう。
まぁ何はともあれ、
カルディのにんじんドレッシングは美味しいです。
子供がサラダをむしゃむしゃ食べるよ。
あー面倒くさい。
「人生とは面倒くささとの戦いだ」
と言った友達がいた。
名言すぎてそれからずっと心にこびりついていて、
ほんとにその通りだといつも思う。
まぁ私がかなりの面倒くさがりだから響くだけなのかもしれないけど。
なんせ本当は朝起きるところから面倒くさい。
身支度して朝ごはん作るのも面倒くさい。
化粧するのも掃除するのも洗濯するのも子供を叱るのもお風呂入るのも全部ぜーんぶ、本当は面倒くさい。
これに出勤とかメールチェックとか社交辞令とか報告書とかONモードなあれこれが加わった日にはもう、ピーク・オブ・面倒くさい。
なのに、毎日それなりにこなして1日が終わるのは我ながらすごいと思う。
こんなに心の中では(いや言葉にも漏れ出つつ)面倒くさいと思ってるのに。
面倒くささとの戦いにかろうじて勝っているんだろうか。
さて、
冒頭の名言を吐いた彼は、努力の末に弁護士になった。
『勉強』という、私からすれば面倒くさ界の重鎮みたいなのとひたすら戦い続けて、
夢を一つ叶えたのだ。
(B君読んでたりするかな。すごいよあんたと言いたい。そして名言をありがとう。)
世の中でいわゆる“成功”をしていたり、
幸せに暮らしている人たちは、
面倒くさいことときちんと向き合って、乗り越えたりうまく付き合ったりしてる傾向があると思う。
逆に面倒くさいことから逃げ続けてると、
なんだか虚しく味気ない毎日になってしまう気がする。発展がないというか。
出汁とったり
粉からパン焼いたり
家中の窓拭いたり
写真まとめたり
パソコンのフォルダ整理したり
ショートカットキー覚えたり
洋服のほつれシミしわ直したり
どれもできてないこと。
でもきっと面倒くさいことと豊かなことは実は近くにあるんだろなぁとわかってる。
だからリンネル的なテンションで『丁寧な暮らし』みたいな文字面を見ると
なんだかゾワゾワして
「ひぇーっ!溶けるー(?)!ごめんなさい!」
と後ろめたさで満たされる。
「子供いるしね、そんなのんびりしたこと言ってられないわ」
てな定石で言い訳したくなるも、
じゃあ子供いなかったらやるのかよと自問するとウッてなるし、言い訳に使われた子供にも申し訳ないなと思ってさらにズムーンなんですよ、ね。
しかしそんな私にも、面倒くささに打ち勝つための小ワザがある。
それは
“面倒くさいと頭が思う前にやる”
ということ。
脳をダマすと言うか、意識の水面に“めんど…”という感情が現れる前に体を動かすと、わりとうまくいくことが多いです。
例えば、「あー起きなきゃぁ…」と思いながらゴロゴロしてて、起きて身支度して出かけたと思ったらそれは夢だった!みたいな時はちょっと死にたくなるからね…
「あー起きるのめんど…シャキーン!!(起床)」
みたいなことができると良い一日が待っています。
たぶん。
そして、こないだ面倒くさいことがたくさん載っていそうな本を見つけたのでポチりました。
このポイントだけいいとこ取りしようという姿勢に面倒くさがりの性が透けて見えますが、そこは触れずに。
【読書】「自分の仕事をつくる」読みました。
未来の働き方や生き方に興味があるとか何とか公言しながら、
二人目の育休も一年が過ぎ、
すっかりその熱もぬるくなってしまった。
ワークライフバランスに関する企画書(と言えるほどの物でもなかったけど…)持って、上司に専任担当にしてくれと詰め寄ってたのは遠い昔の話か。
自分の意志の弱さに幻滅すると同時に、そのくらい“当事者”でなくなることは関心を薄くするんだなぁと実感している。
駒崎弘樹さんが、
「子育て世代の意見が政治に反映されにくいのは、当事者である期間が短くて声を上げても持続しないからだ」
という趣旨のことを言っていて、すごく腹落ちしたのを思い出す。
たとえば保活に悩ませられるのもせいぜい1〜2年の話だし、その後は両立問題、小一の壁と立て続けに新しい問題が待っていて、「保育園増やしてくれー!」なんていつまでも言ってられるほどみんなヒマじゃないのよね。
当事者じゃないと弱い。
渦中にいないとその人の気持ちや境遇がなかなかわからないものだし、
当事者とそうでない人との間には温度差が生まれてしまう。
そこをどうやって想像力働かせて折り合いつけて、共存していくかが人間の厚みってもんでしょと思うので、
いろんな人がいる環境で息子たちには育って欲しいなぁと思うこの頃。
………………………………
ええと、
前置きが長い上に逸れたけど笑、
久しぶりに“働く”こと関連の本を読みました。
『自分の仕事をつくる』
すごく乱暴にまとめると、
“自分が本当に良いと思うもの、好きなものを作る仕事をしよう”
ということを企業家たちのインタビューを通して伝えている本。
“矛盾のない仕事”こそが人を幸せにする、という主張など、ほんとそうだよなぁと思うことばかり。
(✳︎矛盾のある仕事とは、例えば燃やせないプラスチック容器で過剰包装された“健康に良い”自然食品とか、途上国で安い賃金で作らせた“環境に優しい”オーガニックコットンとか…世の中に溢れる〝普通の〟仕事を指す。)
でも。でもね。
好きなことだけで仕事するなんて、
矛盾のない仕事を貫くなんて、
やーっぱり理想論な感じが否めないわけですよ。
理不尽なことに耐えたり、
制約の中で妥協したり、
本質と違うところで駆け引きしたり、
そうやって「なんだかなぁ…」と思いながら働いてる人が大多数なわけで。
だからそういう中で
「やめちゃえばいいじゃん」とか
「意味なくない?」とか
「好きなことだけやれば?」
とかサラッと言っちゃうホリエモンあたりが若者に根強い人気なのはなんか納得なのです。
“自分の仕事をつくる”上でポイントになるのはきっと、
土俵から降りる勇気を持てるかどうか。
ベタな価値観のレッドオーシャンを離れて自分だけの静かな海でのびのび泳ぐのは、どんなに気持ちがいいだろう。
月収100万で歯を食いしばって働くのと、
月収20万で好きなことを思い切りやって心が満たされるのと、
一体どっちが幸せなんだろ。
この本の中でいう良い仕事とは、
「よくやった!」と言われるより
「ありがとう」と言われる仕事だという。
自分のことを振り返ってもその通りだと実感するし、そういう仕事には愛情や情熱が込められていた。
純粋に好きである、楽しいということは、
何物にも代え難い幸福感を生むし、それが滲み出て他の誰かも幸せにするものなのだ。
なんてことを考えつつ、
あ〜海外旅行行きたい!ハクのつくブランド品が欲しい!そろそろディズニーランドに子供連れて行きたいわ!あのホテルのランチ気になる!
などと資本主義の申し子のような私には、
土俵から降りることなんて到底できなそうなんだけど…苦笑
とはいえ、心に理想を持つのと持たないのでは大違い。
私の仕事これでいいんだっけ?
ってなっちゃってる人に特におすすめの良書です。
米つぶ戦争。
戦いの季節がやってきた。
次男の手づかみ食べブームが来たのだ。
彼は手加減を知らないスナイパー。
ごはん、おかず、汁物。
彼にかかれば全てが破壊力抜群の武器になる。
茶碗にグーをつっこみ、
味噌汁の豆腐は握りつぶす。
スープの具をつかもうと皿ごとひっくり返し、
スティック状にした野菜は一口で食べようとする。(そしてむせる。)
納豆に至っては手や口についたのを拭おうとし、そのまま顔に塗る。
で、うわぁってパニックになり髪の毛やテーブルからもネバが引く。
クモの巣。臭い。
まぁ長男の時も毎日戦ってたので今さら驚きもしないのだが、
(いや、むしろ長男は暴れた上に食べないという悲しいおまけ付きだったので、なんだかんだ食べてくれる次男はマシかもしれない。)
厄介なのは米つぶだ。
ごはん食べてればそりゃ普通にこぼれる。
しかしそれだけではそれだけでは済まないのが米つぶ。
テーブルの裏、椅子の隙間、ソファの上、プレイマットの下…
髪の毛の中、鼻の穴、足指の間、絵本のページ、爪の隙間…
なぜそこに忍び込んだ!?という神出鬼没感。
また、食事の終盤=飽きてきてる段階になると、
フッと次男が1秒くらい無になる瞬間がある。
来たっ!
構えろ!
「シュププププププププッッッッッ!!」
奇襲・米つぶ散弾銃。
けっこうな飛距離、そして放射状に米つぶが飛ぶ。
母、完敗を記し、戦いは終了となる。
米つぶにまみれた次男を椅子から降ろし、米つぶが潜むリビングに連れて行き、米つぶが散乱した食卓と床を掃除し、時々米つぶを踏んで「ぐぇっ」となるのだ。
毎日毎日米つぶを拾い続けてる気がする。
米つぶ拾う姿って哀愁漂ってると思うのよね。
背中丸めて、あ〜ぁってため息つきながら、
あんまり人に見られたくない格好で、今日もたくさんの母親が米つぶ拾ってんだろうなと想いを馳せる。
やっと片付いたぜ!
次は洗濯物を干しまーす!
と、子供の洋服を勢いよく広げたら、
パラパラパラ………
足元には洋服から落ちた米つぶが散乱。
ふと目をやると、その米つぶを拾って食べようとしている次男。
もう嫌です。
さようなら。
右脳か左脳か。
右脳の方がよく動いてる気がする。
直感優先、楽しいか美しいか基準、つじつま合わせは後回し。
昔上司に
「まったくお前は右脳ばっか使って仕事する!」
と呆れられ、
ああそうかもと妙に納得しちゃって
「てへへ」とだらしなく返したのを思い出す。
でも、初動で右脳使うのって結構大事だと当時思っていて、
左脳的要素はあとからいくらでも補強できるというのが持論だった。
直感を理論でフォローすればいいって。
だから先の言葉もあー右脳使えてるんだな私っていう褒め言葉にも取れちゃったわけで、
ろくに反省もせず今に至ります…。
さて、そんな私ですが最近かなり左脳寄りなレシピ本を手に入れました。
『落合務のパーフェクトレシピ』
かなり売れてるようでずっと気になってたんだけど、
が、お腹すいてるときにネットで立ち読みしてたら美味しそうでたまらなくなってそのままポチリ。
購買行動なんてこんなもんなんだな。
届いたレシピ本、驚いたのは文字の多さ。
わかりやすいし丁寧に説明してくれてるんだけど、それぞれのメニューで10段階はある工程は、日頃“切る・焼く・味つける”くらいのレシピばかり見てる私にとってはなかなかの衝撃だった。
途中しれっと「ここで30分ほどじっくり煮込む」とか出てくるから、ちゃんと読んでから作らないと出来上がり時間の計算狂うし。
危ない危ない。
しかし、字が多く工程が細かいのには理由がある。
“なぜそうするのか”ということがすごく理論的に書いてあるのだ。
なぜここで強火なのか、
先に混ぜておくのが大事なのはなぜか、
パスタの塩加減と茹でるタイミングはなぜ重要か、
水と油の乳化がいかに大切か、
などなど。
今まで考えずに適当にやってきたことの理由が全部書いてあって、理科の実験みたいでとても面白い。
そして、レシピに忠実に作ると、ほんとに美味しくできた。
“ミートソースとは肉料理である”との名言に惹かれて作ったパスタは、たぶん今までのミートソースで一番美味しかったはず。
落合先生、さすがです。
特に左脳派には魅力的なレシピ本かと思います。
料理に凝りだした男の人とかも好きだろうな。
まぁ難しくはないけどそれなりに手間はかかるので、手抜き料理の合間、ちょっと頑張る日に楽しもうと思います。
右脳か左脳か。
月並みなまとめですが、そのバランスが大切なのかと。
私は右脳スタート左脳追随型が好きだけど、そうじゃない人もいっぱいいる。
はっきりとどっちが良いという話ではないのだから、それぞれの良いとこ取りをすればいい。
なのに世の中は「はっきりしたい!」「決めちゃいたい!」「強くありたい!」という空気が色濃いですね。
某ジャーナリストが
「物事は本来、時間をかけて迷って悩んで揺らぐもの。そしてより良い策を見出していく。(すぐに明確な答えを求める)今の人たちはそのことを理解して耐えなければいけない。」
と言っていて、この“耐えなければいけない”がせっかちな私の心にグッときた。
子供に「早く決めて!」って言いながら、
急いで決めると失敗したり、時間かけて悩む理由があったりすることを忘れちゃいかんと思いました。
って右脳左脳の話から脱線してるな、
まぁいいか。(←右脳的。)